発傍聴席、宛インターネットの深海

良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。(法廷での宣誓文より)

末期、恋愛中毒――あるいは思索の果ての自己否定

 地下鉄の出口からぴゅうっと風が吹き込み、階段を上がっていた早苗は前髪を押さえた。ぬるく、心地のよい風。早苗は春を感じるよりも先に、自分の指の臭いに困惑した。磯のような生臭さと乾いた唾液の、混じったもの。彼――先ほど改札で見送った――のペニスを咥えてから手を洗っていないことに気づいた彼女は、意味もなく辺りを見回した。仕事帰りと思しきスーツ姿の男、下校中の女子学生、持っているレジ袋から白葱が飛び出している主婦……。家路を急ぐ集団と合わせて歩を進めていることに、早苗は自分が異質な存在に思えてならなかった。(抜粋)

 

以上のプロローグは、私がすぐに筆を止めた近作である。この早苗が抱く悲しみに仮託して、私は現実に直面している性(ここではジェンダー、セックスを問わない)の疑問、社会を取り巻く理想化された恋愛の営みについて考察を深めたいと考えた。

早苗という女性は一定のパートナーを持たず、いわば享楽的刹那的に肉体関係を愉しむ耽溺した生活を送っている。とはいえ当の本人は現状を恥じており、彼女の考える「きちんとした恋愛」をしてみたいという欲求を抱えている。当ブログでは以前にも触れたが、現代のエンターテインメント化した恋愛は、明治維新を境にキリスト教的道徳観が輸入され、元来自由であったはずの日本の性に対する意識を視野狭窄とも言うべき男女間の交流に縛り付けた墓標に過ぎない。クィア理論に立脚すれば同性間の恋慕は取り立てて衆目を集める装置にはなりえないし、現に性的マイノリティーは公的に受容されるべき権利集団の様相を呈している。

話がかなり逸れたが、要は早苗の抱える2つの問題――好色とも言える性行動、恋に恋している状態――は悲劇的末路を迎える物語の推進力足り得なかったのである。むしろ私には喜劇とさえ映ったし、力量不足ゆえに今回は筆を置く以外に選択肢が無かった。一作家として忸怩たる思いである。

そこで、エッセイ風にこの記事を書くことで早苗の懊悩を昇華してやりたいと考えた。以下は散逸した思索を拾い集める作業となる。ご了承願いたい。

まずは恋愛に関して思弁的となるが論じてみたいと思う。

 「恋に恋している状態」を語るにあたっては、まず、恋そのものを定義しなければならない。古今東西、あらゆる弁者が恋愛について述べてきた。有名なものとしてスタンダールの『恋愛論』(1822)が挙げられるだろう。彼は恋の結晶作用に言及し、恋愛のもたらす心理を説いた。曰く、恋愛によってその対象を美化してしまう現象は、塩坑に投げ入れられた枯れ枝のごとく、日々、結晶化し輝きを増す。彼(彼女)の些細な振る舞い、言動、そして存在そのものに心を突き動かされ最早、元の枯れ枝に戻ることはできない。悲喜こもごもが結晶を肥大化させ、成就しなかった暁には枝ごと粉々に砕け散る……。失恋の悲壮はやがて吹く風に消されゆく結晶であった塵芥の最期の輝きなのである。

では、その恋に「恋している」状態とはいかなるものか。

私はやはり、アイデンティティの確立と切っても切り離されないものであると考える。あまり新規性のない発想で申し訳ない。が、親以外の存在に自分を肯定される、果ては互いを他に替えようのない情愛の鎖で結ぶ。その行いこそが恋愛へと自らを導く心の動きであろう。他者の介在を経ずして、自己の確立は成しえないのだ。

尤も、恋愛は自己実現の一手段に過ぎず、恋愛無くして成長無しなどと吹聴すれば大多数の怒りを買うであろう。なべて人は、他者を愛せずとも自分を愛することができる。

ではなぜ、恋愛は幸福追求の代表に据えられるのか――これは人が「恋に恋しがち」である所以であるが――なぜ人を愛するという営みは崇高なものとして丁重に扱われるのか。それは先だって触れた、「現代のエンターテインメント化した恋愛」にその答えがあると思う。婚姻の自由、自由恋愛がファンダメンタルな現在では、あらゆる創作物のカテゴリーに恋愛が組み込まれており、最も普遍的な要素でかつ最も話題性を持つ舞台装置である(そしてときに安易に利用される)。この状況下において、自己実現のために自己を恋愛という絶海に投げ込みたいと考えるのは致し方ない情動であろう。

ところで、昨今よく耳にするのが恋愛感情を持ったことがなく悩んでいる人である。実はこの記事を執筆する端緒となったのが、とある友人に持ちかけられた、このような悩みである。長々と恋愛について語ってみせたのはただ、彼女を励ましてやりたい一心であったのだ。

締めくくりとして、私は左記の提言をしたい。

恋愛など取るに足らない自己実現の一環であり、譜面を踊る私達は喜びや悲しみを、他の手段でもって奏でることができる。そして願わくば、幸福をつかもうとするだけならまだしも、他を蹴落としてまで終止線を刻むことなかれ、と。

最後にエリック・ホッファーの発言を引用して終わりたい。

「幸福を探し求めることは、不幸の最たる所以である」